北河内の変遷② 近世(戦国初期から終焉)

日時:12月02日(水) 10:00~12:00

場所:ラポールひらかた4階 大研修室

講師:高齢者大学校 清水 秀司 様

<<近世の枚方>>

[村の成り立ち]

○複雑な所領配置➡村ごとに領主が異なる入り組み支配で、茨田・交野両郡は幕府領・

旗本領の割合が河内国全体のそれぞれ28.6%・20%と高い。

○庄屋と百姓➡庄屋の役割は一般農民を管理監督すること。庄屋は有力農民から選ばれるが、

一般農民は村政には参加できない。

不満は村騒動に発展*村野村の村方騒動(1740)・養父村の村方騒動(1810)

 

 

[農業の発展と人々の暮らし]

○河内のすがた➡北河内は土地柄木綿作りに適していなかった。

木綿は全耕作地の2~3割で、北河内は菜種作りが中心。楠葉の人今中楓渓

作詞した「野崎小唄」(昭和10年)の一節に19世紀の北河内の田園風景がうたわれています。

 

[産業の発達]

○酒造業➡幕府は、米の供給と米価調整のため生産量を調整し、酒造を積極的に

許可した。枚方地方は豊富な地下水と良質な酒米に恵まれていたので、

酒造は盛んであった。

○絞油業(菜種作)➡菜種は灯油原料として、近世初期から胡麻・荏胡麻に代わって栽培され、中振、岡、甲斐田村では盛んであった。

○素麺業➡津田村を中心とする素麺作りの始まりは天保年間(1681~4)ともいわれるが、交野郡の特産品として知られるように

なったのは、近世中期以降(江戸時代豊臣氏滅亡の頃)のこと。

○鋳物師田中家➡枚方村の田中家は、河内鋳物師として、梵鐘・灯篭はじめ鍋・釜・鋤・鍬などを鋳造していた。

[幕末の枚方]

大塩の乱➡大坂町奉行の与力大塩平八郎は、洗心洞という私塾を開き陽明学を教えていた。文政13年(1830 )職を辞し学問に専念していた。天保8年(1837),米価は下がらず、

市民は困窮、豪商・役人は不正を働き、私腹を肥やすことばかり考えていると平八郎は憤慨。

 

大塩一党は「救民」の旗を押し立て、気勢を上げたが、幕府との交戦で壊滅した。その私塾・洗心洞には与力・同心の子弟や北河内尊延寺村の豪農「深尾才次郎」がいた。

彼は洗心洞に入門し大塩に師事していたので、村民を集め(50名)と大坂に向かって出発。

守口村の同志白井家で、大塩敗走の次第を知り、能登国(石川県)まで逃げたが、

結局自害した。

大塩の乱は半日で政府軍に鎮圧され、大塩平八郎は守口の白井家、尊延寺の深尾家に、その後、京都まで逃げ、大坂天満の友人宅に

舞い戻り、身を隠すが、役人に見つかり自害した。尊延寺の深尾才次郎宅跡に大塩平八郎の”碑”がたっています。

 

○楠葉砲台と関門➡元治元年(1864)幕府は楠葉と対岸高浜に砲台を築いた。大阪湾から遡って侵入する外敵から京都を守るためのもの。

○幕府の滅亡➡慶応2年(1866)8月徳川慶喜、第15代将軍に就任。慶応3年(1867)10月大政奉還、12月王政復古の大号令、

ここに260余年の徳川幕府が崩壊した。

 

○鳥羽・伏見の戦い➡将軍職を辞任した徳川慶喜は二条城から大坂城に移り、慶応4年(1868)「討薩の表」を発し、旧幕府軍は京都に

向けて進軍開始。1月3日夕方、薩長を主力とする新政府軍と鳥羽・伏見で衝突した。旧幕府軍の敗退。対岸の山崎を守っていた

津藩藤堂勢が新政府軍に寝返り、6日早朝、八幡・橋本まで退いた旧幕府軍に砲撃を加えた。徳川軍も楠葉砲台から応戦したが、

劣勢を挽回できず、一路大坂城に向かって逃げた。

[(枚方)旗本水野氏の陣屋代官吉川惣七郎(慶応事件記),坂村の私塾言順堂師匠三浦元道氏の漢詩、中振村の畠山文助氏などが当時の

様子を書き残している]

 

○明治天皇の大坂行幸➡慶応4年(1868)3月21日、明治天皇は京都を出発し、京街道を下って大阪に行幸した。

途中、石清水八幡宮で一泊し、翌日枚方宿本陣(今の淀川左岸水防組合)で昼飯を取った。

 

追記:

◯水害・氾濫を繰り返した大和川などの対応について、日本経済新聞に掲載されています

(12月3日付) 下記、太字をクリックしてみてください。

流路変更の痕跡たどる 大和川、2度の工事で大阪湾へ : 日本経済新聞 (nikkei.com)