北河内の変遷① 近世(戦国初期から終焉)

日時:11月11日(水) 10:00~12:00

場所:ラポールひらかた4階 大研修室

講師:高齢者大学校 清水 秀司 様

[戦国時代の枚方]

応仁の乱と枚方地方➡文正2年(1467)京都の畠山政長と畠山義就(ヨシノリ)の合戦を皮切りに、細川勝元と山名持豊の東西二軍に分裂し、11年にわたる

大動乱に突入。これが応仁の乱である。乱の中心人物―河内守護畠山義就の

本拠地南河内と京都を結ぶ交通路に当たっていた枚方地方は軍勢の通路となり、

戦場ともなった。文明14年(14823月政長は京都を発ち、河内奪回を目指し、

転戦。政長にとっては、河内茨田郡西部の十七箇所は北河内の唯一の拠点であり、

守口・大庭・仁和寺当たりの守備に頼みをつないだ。

一方、義就は翌年(14838月八幡に集結し、十七箇所を攻め、水攻めの策を

とり、千町鼻(寝屋川市)大庭堤(守口市)植松堤(八尾市)など淀川・大和川

の堤防を切り落とし、北河内の平野部を水没させため、十七箇所は水上に孤立した。

河内十七箇所:鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部(現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、大阪鶴見区中・東部)に存在した17個所の荘園郡のこと。

[寺内町枚方・招堤の成立]

○蓮如と光善寺➡文明7年(1475)秋、本願寺8世蓮如(1415~99)が越前国吉崎から茨田郡出口に移ってきた。蓮如61歳、当時の出口は淀川沿いの低湿地で、葦の茂る水辺の地。

ここに盛土をして坊舎を建てたのが、近在の御厨石見入道光善という有力門徒であったため、のちに光善寺と称されることになった。文明10年(1478)春、蓮如は出口を去って山城国山科郷に移り、山科本願寺の建立に着手した。

○枚方寺内町と順興寺➡蓮如の13男(末子・27番目の子)実従は永禄2年(1559)石山本願寺から枚方に移って5年間亡くなるまで過ごした。枚方藏の谷(今の元町)には、蓮如が

基礎を固め、永世11年(1514)兄の9世実如が建立した御堂を実従は、壮麗な堂宇に仕上げ

順興寺(現在の願生坊)の開祖になった。実従は招堤道場(のちの教応寺)にも行き来し、永禄7年(1564)、順興寺で亡くなり御坊山に葬られた。

○招堤寺内の成立➡招堤村が守護不入の特権が認められた寺内として建設されたのは、天文12年(1543)のことである。

河内国牧郷の辺りは、応仁・文明の乱で荒れ果てて無主となっていたが、蓮如の6男蓮淳を招いて真宗道場の建立を願い出た。

 

[津田氏の活躍]

○河内守護代 安見直政➡戦国時代の河内国は守護代・国人らの下剋上や一向一揆 などにより、兵乱が絶えなかった。

交野郡私部を本拠にしていた河内下郡代・飯盛城代をつとめていた安見直政が、その後守護代となって、河内国を支配した。

しかし、芥川城主三好長慶が安見直政を高屋城・飯盛城から逐い、高政を高屋城に復帰させた。守護代の地位を失った安見直政

は飯盛から山越えで大和に逃れていった。

三好長慶(ミヨシナガヨシ)と飯盛城➡高屋城の守護畠山高政は永禄3年(1560)5月、河内の国人衆の強請により、長慶に無断で安見直政を守護代に再任して、飯盛城を与えた。 このため高政と長慶は対立たちまち対立することになった。同年6月、長慶は

河内出兵を決行、守口に出陣。また、河内十七箇所には 阿波の同族三好義賢の軍勢が陣を取った。

翌7月から総攻撃が行われ、三好の背後を衝こうと飯盛城から打って出てた安見軍が 岡・三矢・出口・中振などの村々を焼いて戦ったが、飯盛城・高屋城ともに陥落、安見直政・畠山高政ともに堺へ落ち延び,河内の守護制度は一旦廃絶した。三好長慶は

永禄3年(1560)⒒月飯盛城を新たな居城とし、高屋城には三好義賢を入れて、河内一国を支配させた。こうして長慶は山城・大和・ 河内・摂津・和泉の五畿内のほか、丹波・播磨の一部などを支配圏とし、その勢力は頂点に達した。飯盛城は織田信長上洛までの8年間、畿内の政治の中心になった。

*高屋城:大阪府羽曳野市古市にかってあった日本の城、三管領畠山氏の本拠地

*管領は室町幕府おいて、将軍に次ぐ最高の役職

○津田氏の動向➡永禄3年(1560)、飯盛城に入って河内を領国化した三好長慶は、国見山にいた津田3代目の津田正明に、使いを送って、「自分の味方になれ」と

勧めた。正明は飯盛城に出向いて、長慶に臣従の誓いをした。その見返りとして

津田氏は、本領の津田郷とその周辺の穂谷・尊延寺などの村々のほかに、牧8郷及び

友呂岐6郷の安堵状を得た。

○三好三人衆➡三好長慶は永禄7年(1564)飯盛城で病死。死後は、跡目の

三好義嗣が摂津芥川城、その後見人の三好三人衆が飯盛城、松永久秀が大和

多門山城に割拠して、畿内の覇を競ったが、翌8年(15655月、中枢地の京都を

掌握するため、彼らは謀って将軍邸を襲い、足利義輝を暗殺した。幕府の持つ政治力・経済力を握る方法として、将軍弑殺という非常手段が取られたのです。

ここに室町幕府は中絶しました。

畿内周辺部では、美濃の織田氏、越前の朝倉氏、湖北の浅井氏、西中国の

毛利氏などが戦国大名としての道を歩みつつあり、畿内において割拠対立することは許されない状況にあった。

しかし、三好氏の政権内部では三人衆と松永久秀との間の権力闘争が表面化し、各地で大規模な戦乱が展開された。

*三好三人衆とは三好長逸ナガユキ・岩成友通・三好政康 

○永禄⒒年(15689月には織田信長が足利義昭とともに入洛し、畿内を平定した。信長の入洛当時、津田城にいた三好義継は、直ちに降伏し、10月信長により若江城主と河内北半国の守護に任じられた。

 

[中世の枚方]

①天下統一への道

○石山本願寺と織田信長➡明応5年(1496)蓮如が摂津大坂に建立した

御坊は、天文2年(1533)石山本願寺として浄土真宗の本山になった

(今の大阪城本丸・二の丸・三の丸あたり)。この頃浄土真宗が急速に

広まって、枚方地方も本願寺勢力の有力な拠点となっていた。

一方、天下統一を目指す織田信長は本願寺に矢銭(軍用金)を課すとともに、その地の明け渡しを要求。法主顕如(ホッスケンニョ)は信長と戦う準備に

入る。

○石山合戦と招堤寺内衆➡元亀元年(15706月、阿波に逃れていた

三好三人衆が摂津に陣を取り、本願寺と共同歩調をとり、11年に及ぶ石山合戦の始まり。信長は枚方の招堤に軍使を派遣、招堤寺内衆を脅して味方にした。

一方枚方寺内の順興寺(今の願生坊)は宗徒を率いて本願寺のために戦ったため、信長に寺を焼かれてしまった。

○織田信長の畿内平定➡天正3年(15754月、信長は河内平定のため高屋城に拠る三好残党の掃討に向かい、津田氏一族が構える長尾や津熊(藤坂)・大峰を攻撃。津田氏は城を捨て、飯盛城の方へ逃げた。

 

○本能寺の変と徳川家康➡天正10年(15826月2日、織田信長は明智光秀の謀反に

より本能寺に倒れた。このとき家康は堺見物を終え、帰京の途にあった。そのことを

先発隊が枚方で知り、飯盛山に差し掛かっていた家康に告げ、ひとまず本国三河に帰ることに決し、津田から尊延寺を経て山城国綴喜郡に出て木津川を渡り、宇治田原から

信楽を経て伊勢の白子から船で三河に上陸し、岡崎に帰った。

○山崎の合戦と洞ヶ峠➡信長を討った光秀は、信長の本拠安土城に入り、近江を平定。その後、河内を攻め入るため洞ヶ峠に出陣し、大和郡山の筒井順慶の到来を待った。

ところが順慶は河内出陣を取りやめ郡山城に籠城。秀吉の上京を知り、光秀に

味方するのを見合わせた。この順慶の行動を「洞ヶ峠を決め込む」という言葉を生むことになった。

 

   613日、天王山の麓の山崎一帯で秀吉軍と光秀軍の合戦が始まった。孤軍の光秀はたちまちのうちに敗れ去り、

伏見の小栗栖で住民の襲撃に合い殺された。世に言う「三日天下」の惨めな結末であった。 

 

○枚方城とお茶屋御殿➡秀吉は信長が亡きあと天下統一の偉業を継ぐため、天正11(1583)大阪城の築城にとりかかった。

大坂は軍事上、経済上、全国でも最も重要な地となり、京都・大坂を結ぶ枚方地方も当然重要視されるようになった。

 当時、枚方には秀吉の臣本多内膳正康の居城枚方城があった。

 

秀吉は本多氏の娘乙御前を愛し、文禄4(1595)枚方城の近くにお茶屋御殿を建てて住まわせた。

枚方城は慶長20(1615)大坂城落城とともに廃され、また、お茶屋御殿は延宝7(1679)枚方宿の大火の際に類焼して消滅した。[10/21―まち歩き(歴史と文化を訪ねて②)参照]

 

○太閤検地➡秀吉は全国統一の過程で検地を実施。河内国では天正⒒年(1583)秀吉による最初の検地が行われた。

招堤村で行われた検地は申告による差出検地であって実地に竿入れする検地は文禄検地からであった

枚方地方の太閤検地(竿入検地)は文禄3年(1594)からである。(竿入検地:竿を用いて土地を測量)

 

②江戸幕府の成立

○大坂冬の陣と夏の陣➡慶長19(1614)10月、大坂冬の陣が始まった。

徳川方は京都に結集し、淀川沿いルートをとらず、大和路・河内路から大坂城に迫ろうとした。枚方は河内路の要衝にあり、多くの武将が陣を敷いた。

10/29 大坂方は出口の堤を切って通路を妨げたが、徳川方の美濃勢が堤を修築。11/15  家康は大和路に、秀忠は河内路に軍を進めた。大坂方は籠城作戦、

12/20  講和が成立

 慶長20(1615)4月 夏の陣が始まった。徳川勢の大軍は大和路と河内路の

両方から大坂を攻撃。枚方地方は何万という大軍の進路となり、また陣が置か れた。

5月8日大坂城は炎上、豊臣氏は2代で滅亡。冬の陣・夏の陣で枚方地方は戦場と

なり、住民は大きな被害を受けた。 楠葉の久修恩院が焼け落ちたのも、夏の陣で大坂方の残党が隠れ、火を放って

自殺したため。  

③枚方宿の設置

○京街道の整備➡豊臣秀吉は、大坂・伏見に築城を終えると、この2拠点を最短距離で 結ぶ

ため、文禄5年(1596)淀川左岸に文禄堤を築造、道路として利用。

この道路がのちの京街道である。江戸時代になると東海道の延長部として京都大坂を結ぶ

主要街道になった。

○枚方の主な街道➡京街道・東高野街道(洞ヶ峠~出屋敷・茄子作~河内長野)、山根街道

(長尾~私部)、磐船街道(岡本町~私市~田原)、宇治街道(枚方・田口・長尾~荒坂峠~

宇治)

○枚方宿の設置➡元和2年(1616)ごろ、京街道には東海道57宿の宿場として

伏見・淀・枚方・守口の4宿が設けられ、街道筋の岡新町・岡・三矢・泥町の4村が枚方宿に

指定された。枚方宿の本陣は現在の“淀川左岸水防組合事務所”のところにあった。

○枚方宿助郷➡幕府は宿駅制のため、常備の人馬だけでは不足する場合に備えて、近在の村々から人馬を徴発(強制的に

取り立てる)する助郷制度を設けた。

枚方宿は万治3(1660)8月で、枚方・伊加賀・走谷・中振・出口の5ヵ村が指定された。その後、助郷制度を強化し、枚方宿は28ヵ村追加され、33ヵ村が指定された。枚方地方は馬を飼っている農家が少ないので、必要な時は、山城や丹波まで、

借りに行った。また、農繁期でも助郷の指令が来ると出かけねばならず、農民にとっては大きな負担になった。

 

④淀川の水運

○淀川の水運➡淀川は江戸時代になると、過書船の往来で賑わった。慶長8(1603)幕府から舟運の独占権が認められ、

三十石船は過書船のうち代表的な旅客船である。

○枚方名物 くらわんか舟➡三十石船は、伏見と八軒家の中間の枚方浜に停泊していた。この船に漕ぎ寄せ、餡餅・ごぼう汁・

酒など売る茶舟があった。

○宿場町の賑わい➡京街道の宿場であり、淀川水運の中継港でもある枚方は、京阪間の交通の要衝として賑わいをみせ、

徐々に農村から町へ発展していった。

 鍵屋は天正年間(15731593・戦国時代)の創立といわれる船宿で、元和年間(16151624・安土桃山時代)のキリシタン暦に鍵屋志門の名があり、マリヤ観音を所蔵していたという。明和年間(17641772・江戸時代)の頃、同家の中興・

鍵屋善七によって、 ますます繁盛し、その名は広く知れ渡り、「淀川三十石船唄」にも歌われた。  

⑤農業―耕地の拡大

○領主による農業奨励➡近世社会の基本産業は農業で、農村には農民がおり、一方城下には武士や町人がいた。

幕藩領主は、農民に贅沢を一切許さず、農業などの生業に専念させた。

○福岡村の新田開発➡長尾村は中世末期に津田氏の支配下にあったが、津田氏が信長に敵対したため攻撃を受け、

住民は村を捨てて藤坂村に移った。元和5(1619)、旗本久貝正俊がこの地方の領主となり、

津田・藤坂・杉・片鉾・田口の村々を与えられた。

久貝氏は家臣細谷善兵衛に長尾の八田広を再開発させ、その村を福岡村と名付けた。

○新しい農具の導入➡元禄期(16881704)に、鍬先が24本に分かれた備中鍬が現れ、荒起こしや深耕に使われ短期間で普及。

また、「千歯こき」の出現は脱穀の作業能率を飛躍的に上げた。元禄期から近畿の農村では、生産力が大きく増大した。