まち歩き:橋本~お台場~ 樟葉
日時:11月18日(水) 13:20 集合・京阪橋本駅前 15:30 解散・京阪くずは/樟葉駅
行程:橋本駅-久修園院-お台場-久親恩寺-米谷家-くずは駅
講師:枚方市観光ボランティアガイドの会
まち歩き
○久修園院(くずおいん・くしゅうおんいん)➡神亀2年(725)9月、行基が58歳の
とき、交野郡一条に創建したと伝えられる。
慶長19年(1614)大坂冬の陣、翌20年(1615)大坂夏の陣で枚方地方は戦場となり、
住民は大きな被害を受けた。 楠葉の久修園院が焼け落ちたのも、夏の陣のとき、
大阪方の残党が隠れ、火を放って自殺したためと伝えられている。
久修園院の住職宗覚(そうかく)律師は寛文2年(1662)24歳で仏門に入り、延宝7年(1679)久修園院再興の懇請を受けて住職なった。彼の活動は多彩で、宗教の他天文・地理・絵画・工芸・音楽など多方面にわたった。彼は「久修園集」・「久修園続集」・を刊行し、また「両界曼荼羅図」などの絵画や「大明省図」などの地図、さらに
天球儀・地球儀・琴などを製作し、これらは今に残されています。
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○楠葉砲台跡➡樟葉駅を京都に向かって少し超えた右手に「戊辰役橋本砲台跡」と
刻まれた小さな石碑があります。
その辺りが幕末・鳥羽・伏見の戦いの舞台となったことを示している。
嘉永6年(1853)長年の鎖国を破った黒船来航に幕府は大きな衝撃を受け、諸外国と
不平等条約を結んでしまい、経済は混乱、生活は困窮した。
慶応元年(1865)幕府は討幕の意を固めた長州に兵を送ったが、薩摩と手を結んだ
長州に敗北。15代将軍徳川慶喜は慶応3年(1867)大政奉還を行い大阪城に移った。
翌4年(1868)1月3日、薩長の軍隊と旧幕府軍が鳥羽・伏見で戦闘になった。
これを「鳥羽伏見の戦い」といい、慶応4年は戊辰の年なので「戊辰戦争」とも
いう。
楠葉砲台跡は、幕府が元治元年(1864)都を外敵から守るという名目で、楠葉と
対岸の高浜に砲台を築いた。しかし、大砲が向けられたのは、伏見から退いてきた旧幕府軍と対岸に陣取る同じ幕府軍津藩藤堂家の新政府軍への寝返りによって、高浜砲台から砲撃を受け 楠葉砲台を守る旧幕府軍の敗戦は決定的となった。
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○久親恩寺(くしんおんじ)➡禅宗曹洞宗派の寺で薬師如来を本尊としている。
創立の年月は詳細が無いが、1600年代後半とされている。
鳥羽・伏見の戦いで全焼したが、その後、建立された。樹齢約600年の楠(くすのき)があり、
枚方市の保存樹木1号に指定されている(2015年の火災で損傷)。
なお、保存樹木2号の楠玉神社にある楠と夫婦樹木として扱われている。
当時は京街道に直結し長州藩主の通行などで重要な休憩所にあてられていた。
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○枚方「町楠葉」の“米谷家”➡戦国の世、枚方市の磯島、三栗、楠葉の一部に
キリシタン布教のあとが残っています。
北河内の枚方「町楠葉」の楠葉村が隠れキリシタン村であったことが残っている。
この町楠葉の大屋敷「米谷家」は和歌山紀州公の指定陣屋で一般の人も宿泊していた。
その中に、近藤勇などの宿帳も残っています。
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