まち歩き:枚方公園駅~万年寺山~宗左の辻
日時:10月21日(水) 13:20 集合・京阪枚方公園駅 15:00 解散・京阪枚方駅
行程:枚方公園駅ー万年寺山(御茶屋御殿跡)ー森繁久彌生家ー宗左の辻ー京阪枚方市駅
講師:枚方市観光ボランティアガイドの会
まち歩き
○お茶屋御殿―豊臣秀吉は信長亡きあと天下統一の偉業を継ぐため、
天正11年(1583)大阪城の築城に取り掛かる。
枚方には秀吉の臣本多内膳正康の居城枚方城があり、本多氏の娘乙御前を愛し、枚方城近くに「お茶屋御殿」を建てて住まわせたと言われていますが、残念ながら、遺構は残っていません。寛永3年(1626)には、3代将軍徳川家光も訪れて
います。 淀川を一望できるこの地は軍事的にも要所であったと考えられます。
お茶屋御殿は延宝7年(1679)枚方宿の 大火の際に類焼して消滅しました。
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○意賀美神社―豊かな木々に囲まれた境内は、市民に選ばれた枚方八景の一つ。
もとは伊加賀の地にあったが、明治42年に三社合祀して [日吉神社(岡・岡新町両村の
鎮守社)須賀神社(三矢・枚方)、意賀美神社(伊加賀・泥町)]万年寺山の現在地に
移った。
境内には四世紀前半の万年寺山古墳がある。
青銅鏡八面出土→明治の神仏分離令で、廃寺となり、仏像は三矢の浄念寺に移された。
鎌倉時代前期の作で、枚方市の指定文化財です。同じく移設された万年寺の鐘楼も、収蔵庫内に保存されています。
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○田中邸のむくの木―意賀美神社のそばにあるむくの木は 河内鋳物師といわれる枚方田中家(屋号金屋)の椋の巨樹で、樹齢600~700年(鎌倉時代)、樹高21mで大阪府の天然記念物に指定されている(昭和45年)。なお、渚院跡の観音寺の梵鐘は河内鋳物師枚方田中家の作です。 むくの木が植えられていたのは、葉面がざらざらしているので、鋳造した製品を磨くのに
用いられた。
江戸時代に建てられた工場や主屋もこの地に残っていたが、現在は王仁公園の南側に移築復元され市立旧田中家鋳物民族資料館となっています。
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○願生坊―蓮如の13男実従は、永禄2年(1559)12月石山本願寺(今の大阪城のところにあった
浄土真宗総本山のこと)から枚方に移ってきた。
蓮如が基礎を固め、9世実如が建立した御堂を実従は壮麗な堂宇に仕上げ、順興寺
(現在の願生坊)の開祖となった。実従は招堤道場(のちの敬応寺)に行き来し、枚方地方の
布教に努力した。石山本願寺攻めで信長と戦い、寺は焼失。 のちに願生坊として
再建されました。
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○臺鏡寺(台鏡寺)―三十石船歌に歌われている“枚方で高いのは台鏡寺”。
本堂屋根裏吊部屋に、淀川監視のための“丸い穴“が二つ空いているのが発見された。
境内には「夜歩き地蔵」と地蔵尊が祀られている。昔は縁結びの地蔵尊として
枚方市の遊女たちの参詣で賑わった。
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○宗左の辻➡この道標(宗左の辻)は文政9年(1826)からこの場所に建ち続けているそうです。
江戸時代、岡村の横丁と中ノ丁の境には、東海道と磐船街道の追分(分岐点)が
ありました。
枚方市駅北側のこの場所に精油業を営んでいた角野宗左の屋敷があり、この辻は「宗左の辻」と
呼ばれるようになりました。
大坂八軒家の旅籠衆が、旅人の無事を願って建てたのでしょうと言われています。
また珍しいことに一つの石柱に「大坂」と「大阪」の2通りの文字が書かれています。
江戸時代までは「大坂」、明治になって「大阪」に改められたが、この道標が建てられた幕末の頃は両方が使われていたのかな?
枚方宿の遊女たちが、客をここまで送ってきたということで、『送りましょうか、
送られましょうか、せめて宗左の辻までも』という俗謡が残っています。
その昔、幕末の頃には、この街道を毎日数千人の人々が通り過ぎて行ったそうです。
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